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ブルースリーの歩んだ道

●1940年 11月27日 サンフランシスコのチャイナタウンのチャイニーズ・ホスピタルにて中国の暦でいう龍の年、龍の月に誕生した。彼の父は名優・李海泉。母は、ドイツとの混血である李何愛楡。ブルースリーは中国人とドイツ人の混血児、 クウォーターである。英語名Bruceは、病院の看護婦がつけた・中国名・李振藩。

●1941年 生後約3カ月で、映画『金門女』に出演。

●1947年 香港ラサールスクール初等部へ入学。父から太極拳を学ぶ。(ブルースは実践に投入しにくいという理由からあまり打ち込まなかった)

●1950年 『細路祥』に出演、父との共演となった。・ここで彼は終生使う李小龍を使うようになる

●1952年  ラサールカレッジ(溂沙書院)入学。 ケンカに明け暮れる日々が続く。

●1953年 ケンカに勝つため、詠春拳道場の門を叩く。師は、達人イップ・マン(葉問)氏。詠春拳の中興の祖であり達人とされる葉問。後に「生涯で師と呼べるのはイップ・マン先生のみ」と言わせた人物

●1958年  香港初のカラー映画『人海孤鴻』出演。香港チャチャコンテストで優勝。高校ボクシング大会に出場、3年連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳スタイルで撃破。

●1959年  「節拳」「功力拳」などの型を学ぶ。

詠春派のライバル・蔡李仏派の挑戦を受け、相手に大怪我を負わせたため、警察沙汰となリ、単身渡米。

●1959年  サンフランシスコに到着。シアトルへ移る。父の知人・ルビー・チョウのレストランで働きながら、エジソン・テクニカル・インスティチュート(現・シアトル・セントラル・コミュニティ・ カレッジ)に通学。ターキー木村氏と出会う。

●1960年 エジソン・テクニカル・インスティチュート卒業。大学入学資格を得る。

●1961年  ワシントン大学哲学科入学。ターキー木村の勧めで、本格的に道場「振藩國術館」を開く。空手家の挑戦を受け、わずか11秒で倒す。(感銘を受けた彼はブルースに弟子入りする)

●1963年  渡米後、初めて香港へ帰郷。リンダ・エメリーが弟子入り。「基本中国拳法」を自費出版。生前完成された唯一の著書

●1964年  「振藩國術館オークランド」を開設。ロングビーチで開催された「インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップス」で、ターキー木村をパートナーにデモンストレーション。この時、ダン・イノサントと出会う。また、この演武は“アメリカ空手の父”エド・パーカーの招聘によるものである。“アメリカ・テコンドーの父”ジューン・リー(李俊九)と交流が始まったのもこの頃。リンダ・エメリーと結婚。ウォン・ジャックマンと対決。 

●1965年 長男・ブランドン(李国豪)誕生。父・李海泉死去。「チャーリーチャンズ・ナンバーワン・サン」のスクリーン・テストを受ける。(邦題『ドラゴン拳法』)一家で香港へ帰郷。

●1966年  イノサントとの会話から“JKD”の呼び名が生まれる。第1回カリフォルニア州カラテ選手権でデモンストレーションを行う。これが好評をえて『グリーン・ホーネット』収録開始。 準主役の日本人・カトー役(カトー・ハヤシ)。9月9日、『グリーン・ホーネット』放送開始。

●1967年 『バットマン』の二つのエピソードに“カトー”として出演。第3の「振藩國術館」開設。『グリーン・ホーネット』放送終了。 ワシントンDC国際カラテ選手権にてデモンストレーション  マジソン・スクエア・ガーデンの全米オープンカラテ選手権にゲスト出演。チャック・ノリスと出会う。

     『鬼警部アイアンサイド』にゲスト出演。ロングビーチの国際カラテ選手権でフルコンタクト・スパーリングを披露。初めて「ブラックベルト」誌(アメリカで最も権威ある格闘技雑誌)の表紙を飾る。

●1968年 JKDの個人レッスンを始める。『サイレンサー・破壊部隊』でアクション指導。MGM映画『Marlowe(邦題/かわいい女』にゲスト出演。TV『ブロンディ』『ヒア・カム・ザ・ブライズ』各1エピソードにゲスト出演。

●1969年  長女シャノン誕生(中国名/李香凝)映画『春雨を歩けば』でアクション監督。『サイレントフルート』の企画立案。その後、ジェームス・コバーンらとともにインドまでロケハンまで行うが、諸事情で製作は頓挫。

●1970年  トレーニング中、仙骨を痛め、病床につく。この時期、膨大な量のエッセイ、格闘理論などを執筆。後年「Tao of Jeet Kune Do」などに編まれ、出版される元となる。

     TV『ロングストリート』の1エピソードに“JKDの教師”)役で出演。サブタイトルは「The Way of the Intercepting Fist」。・映画製作者フレッド・ワイントローブとTVシリーズ「The Warrior」の企画を練る。(後にこの役をデビッド・キャラダインにとってかわられた、「燃えよカンフー」)

      ゴールデンハーベスト映画会社と1本1万米ドルで、2本の映画に出演する契約を結ぶ。

●1971年 『ロングストリート』パイロット版(第一話)出演。『ドラゴン危機一発(big Boss)』撮影のため、タイに出発。『ドラゴン危機一発』公開。空前の大ヒット。「ピエール・バートン・ショー」出演。第2作『ドラゴン怒りの鉄拳(精武門/Fist of Fury)』撮影。

●1972年  『ドラゴン怒りの鉄拳』公開。前作を上回る大ヒット。興業記録を更新。第3作は製作・監督・脚本・音楽・武術指導・主演すべてを一人で行った『ドラゴンへの道』を製作 時代劇『細鳳』 のスチール撮影。

     『死亡遊戯(Game of Death)』アクションシーンを撮影開始。『ドラゴンへの道』公開。さらに記録を塗り変える大ヒット。『燃えよドラゴン(龍争虎闘/Enter the Dragon)』の契約を結ぶ。この年、イップ・マン師、盟友ジェームズ・リー他界 

●1973年  『燃えよドラゴン』撮影終了。同映画の音声吹き込み中に昏倒。意識不明の重体だったが、回復 渡米し、精密検査を受ける。結果は異常なし。

 7月20日 突然の逝去。25日 香港で葬儀。28日 アメリカで葬儀・納棺。

8月19日 グローマンズ・チャイニーズ・シアターを皮切りに『燃えよドラゴン』全米公開。世界中に大ブームを巻き起こす。 

10月18日 『燃えよドラゴン』香港公開 12月22日 『燃えよドラゴン』日本公開

9月 検屍裁判の結果、死因は脳浮腫とされる。

◯1978年  主なアクションシーンのほとんどを撮了していた、『死亡遊戯』完成。監督ロバート・クローズ。しかし使用された生前撮影分は、わずか13分ほど。

◯1993年 ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにその名を刻まれる。アメリカ映画『ドラゴン・ブルース・リー物語』も全米でヒット。しかし、その日を心待ちにしていた愛息ブランドンは、これに先立つ3月、主演映画『クロウ/飛翔伝説(The Crow)』撮撮影中、事故死していた。

◯1998年  『燃えよドラゴン・特別編』ビデオ発売。英語版でカットされてしまった、ブルース・リーがJKD哲学を語るシーンなどが復刻され、音楽もデジタル技術でドルビーにリニューアルされた。

◯2000年 生誕60周年を記念して彼が遺したノートや現存テープをもとにドキュメントを交えて復刻された

『死亡的遊戯』GAME OF DEATH-G-O-D-リリース

彼の死後 1993年にハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにその名を刻まれる  

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