想いの継承

 

時は西暦184年。

 

中国では漢の皇帝が政治に無関心と宦官の横暴で乱れた。

 

張角が率いる黄色の頭巾をかぶった民衆が反乱

 

「黄巾の乱」が起こった。

 

 

その時 各地の群雄は

 

[この国 漢を強くするべし 皇帝をお守りし 反乱を平定せん]

 

という御旗のもと

 

 群雄が功を競いあう 群雄割拠の時代へと突入し、

 

次第に曹操、孫権の2大勢力が勢いを増す。

 

 

 

皇帝を擁した曹操は自分の地盤を固めるために皇帝を精神的に追い詰める。

 

皇帝を守るはずの曹操ももはや自分一族が皇帝になろうとしていた。

 

 

 

曹操のライバルであった劉備は自分が今の皇帝の遠い親戚であったのだが

 

元々は母と共にむしろを織っていた若者である

 

劉備は皇帝にとって代わるつもりなどなく

 

 

 

 あくまで「漢室を復興したい」という想いを胸に、

 

勝っては敗れ 領地を失い 東奔西走するのである。

 

 

劉備が207年に遠い親戚の劉表に世話になって治めていた領地に賢人がいることを知る。

 

その男は

 

 「諸葛亮孔明」 である

 

 

孔明は過去の偉人(特に楽毅)と比べて自分を高めようと学問を志し、

 

田舎でその才能を発揮することなく晴耕雨読の日々をおくり、

 

劉備は水鏡先生という人物に

 

「伏竜といわれる孔明という人物がいる

 

この人を軍師にできれば天下統一ができる」と伝えられたという。

 

 

劉備 40歳台の時に、わずか20歳台の青年の家へ

 

三度、直接訪問するのである。

 

 

 

 

 

これが「三顧の礼」である。

 

 

その想いに胸をうたれた諸葛亮孔明は命をかけて彼を支える軍師になったのである。

 

その後彼は劉備の義兄弟[関羽][張飛]に嫉妬されるほどの信頼を得た。

 

まず彼が着手したのは戸籍表の取り直しである

 

 

劉備が「兵が集まらない どうしたものか」と悩んでいたところを

 

 

 

「戸籍を取り直しましょう 

 

おそらく今の戸籍情報は正確なものではありません」

 

 

 

といって取り直したら見事に記録されていない人が大勢いて

 

人口の分母が増えたので当然兵士の数は増えたのである。

 

 

三国志演義では

 

 

 

「軍略の天才」

 

 

 

として奇抜な作戦(空城を計等)をたてるなどの脚色をされているが

 

 

 

実際は彼が参加した戦いは南蛮制圧が初めてであり

 

 

基本は過去の歴史の偉人たちを参考にして政治を行う政治家であったのである。

 

そして彼の信条は誠意をもって民衆に接し、

 

どんなに小さい罪も許さずどんなに小さい功績も讃えるという政治姿勢を貫き

 

 

劉備が旗揚げの時から従う「初期時代」

 

 

劉表の世話になりその後赤壁に勝利した「荊州時代」

 

 

孔明が提唱した「天下三分の計」に従い劉障から蜀を奪った「蜀平定後」

 

 

 

3つの世代の違う軍団を取りまとめるのである。

 

 

この間に「赤壁の戦い」があり 呉 蜀に希望の光がもたらされた

 

(映画や小説で話題だが赤壁の戦い自体なかったとする説まである

 事実 呉の将軍 周喩はこの戦いの後昇進していない

私は 無駄に脚色するのは好まないので割愛する )

 

 

 

 

 

その後、蜀を平定し魏と戦い勝利した後、劉備は

「皇帝」と称したらどうかと家臣に言われ、

 

 

 

「何を言う 私は帝をお助けするのだ、帝を称するつもりはない」

 

 

 

といいつつも ここで劉備はまずは漢中を平定した事をもって

 

 

 

「漢中王」を吊乗るのである

 

 

  漢を興した祖先 劉邦はここに左遷された後 ここで漢中王になったことから

  劉邦は 国号を[]にしたのである

 

 

劉備にもこの「漢中王」を号する勢力になりえた事は非常に嬉しかったことであろうことは想像に難くない  

 

 

 

ライバル 曹操が死にその子 [曹丕]がついに漢の皇帝を廃位して自ら皇帝になった

 

 

この時皇帝が殺害されたという情報が流れた(後で誤情報であと判明)

 

 

むしろを織っていた劉備は「漢」を滅ぶことを許さず、

 

ついに皇帝を吊乗るのである。

 

 

 

 勢いを増す「蜀」「[劉備]にも死からは逃れることはできなかった

 

 

 

 

 

荊州を守っていた義兄弟「関羽」が自身の奢りと

 

魏と呉の連携攻撃で呉に捕まり首を斬られて死亡

 

怒りで血がのぼった劉備は

 

 

 

孔明の忠告も聞かず 盟友の孫権を攻めて敗北するのである

 

(なおこの戦いの前に張飛は寝首を書かれて死亡している)

 

心身ともに疲れ果てた劉備は死期を悟って枕元に孔明を呼んでこういったのである

 

 

「君の才能は曹丕(曹操の息子)をはるかに超える。きっと国を安定させて、最終的に大事(中国統一)を果たすだろう。

 

 もし後継ぎ(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、

 

 君が自ら皇帝となれ」

 

 

 

 

 

 

 

 涙ながらに孔明はこう答えるのである

 

 

 

「私は貴方に三度訪問してくださり、このご恩を奉公し返すことを考えることはしますが

 

貴方の息子にとって代ろうなどとは思っておりません。全力で補佐します」

 

 

 

 後に皇帝としてはあるまじき軽率な言動であるといわれるのであるが

 

 劉備と孔明の絶対の信頼関係がうかがえる遺言である

 

 

 

 劉備の息子 劉禅は長男で後継ぎのライバルもおらず、

 

ぬくぬくと育ってしまった男である

 

 

 

 彼の事を非常に心配した劉備はこう言い残す

 

 

 [悪事はどんな小さなことでも行なってはいけない。

  善事はどんな小さなことでもこれを行なえ。

  お前の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。

  歴史書 兵法書 等々を読んでしっかり勉強せよ。

  これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。いささかも怠ったらばそなたらは上孝の子であるぞ]

 

 

 

劉備の遺言もむなしく息子の劉禅は政治に関心がなかった

 

 

宮廷の女の人を増やしたいだのなんだのとちっともである。

 

 

 

 

孔明は劉備の死後反乱を興した南蛮を平定し、

 

 いよいよ 劉備がなしえなかった

 

 「魏討伐」へ乗り出すのである。

 

  

 

「魏」「呉」 「蜀」

 

 

 

この三勢力を今正確に比率で表すのは上可能だが

 

 

魏  呉  蜀

 

50 35 15

 

 

というように言われることがある

 

 

 

この国力の差は 第二次世界大戦でアメリカへ戦いを挑んだ日本の比ではないらしい

 

 

 

呉が南東から睨みをきかせ、それを片方の手で押さえていた魏

 

 

蜀が南西から全力で挑んでいたのに対し

 

 

魏は片手で応戦していたようなものである。

 

 

 

国力の差からいえば呉の方が上なので左手の三本指で応戦していたとも言えるかもしれない

 

 

 

それだけ絶望的な挑戦であった

 

 

 

この時孔明が劉禅に上奏したのが 

 

「出師の表」である

 

「先帝は自分が単なる若輩者であるのに、三回も訪れ、自分を登用してくれた

 

 この事にとても感謝している、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、

 

 逆賊たる魏を破り、漢王朝を復興してみせます」

 

 

 

読んで泣かない者はないといわれる名文である

 

 

 

最後はこう結んである。

 

 

 

 

「わたしは先帝からうけたことの感激に報いることはいまだできていません

 

 

いままさに先帝が遠く離れるにあたり涙を流し、言葉もありません」

 

 

 

彼はついに宣戦布告し 魏に挑む

 

 

 「北伐」である。

 

 

 

 

 

序盤戦でかつて蜀に在籍していた孟達が治める新城に目を付けた。

 

魏の先帝 曹丕は彼を寵愛したが元々降伏した将軍故急に魏には居場所がなくなってきた 

 

これを孔明はを察知して

 

 

 

彼に蜀に戻ってくるように連絡を入れるのである

 

孟達は迷ったあげく 蜀に帰ることを決めるが

 

 諸葛亮孔明のライバルの軍師

 

「司馬仲達」の怒涛の隠密行動部隊に孟達はやられて城は陥落

 

 

 

まずは孔明の敗北からスタートするのである。

 

 

しかし実戦では孔明率いる蜀は三群を平定する快進撃を見せる。

 

 

 

 

これを天国で見ていた劉備は喜んだに違いない

 

 

孔明はここで逸材を見つける

 

 

 「姜維 伯約」 という若者である

 

 

彼は孔明の策略で内通を疑われ 行く場がなく 途方に暮れているところに孔明率いる蜀に降るのである

 

 

 

あえて三国志演義の脚色を借りれば

 

 

 

姜維は孔明の策略を見破るデビューを飾る

 

 

策略を見破った者が20台の若者である事を知って

 

 

孔明は自分の策略を破られたそのことよりも

 

「この私の策略を見破った若者をぜひ陣営に加えたい」

 

 

内通しているという情報を流すと敵は見事に引っ掛かり姜維は孤立状態になる

 

 

 

そこに孔明が現れ

 

 

「姜維よ、君の勝ち目はない 

 

 私の元にこい

 

 今、私は自分の兵法を託す人を見つけたのだ」 

 

 

 

この言葉に感激し姜維は蜀に降るのである

 

 

この戦いで成果はあげられなかったが

 

 

 

「姜維」

 

 

という若者を得ることができたのはその後の蜀の命運に大きく左右する。

 

 正史に戻る

 

 

 

この北伐で孔明は重大な失敗をする

 

 

自らがほれ込んだ馬謖を総大将に起用したが

 

兵站を確保しない奇策を用いたことが裏目に出て

 

 大敗

 

 

平定した三群も引き払って帰らなくてはいけなくなったのだ。

 

 

孔明は後に蜀の政治を担う彼を斬ろうとした

 

孔明の死後 政治を担う蔣琬は

 

 「殺すのはおしい。未来の逸材を殺してはなりません」

 

 

 孔明は答える

 

 

   「いやここで許して事では法律が揺らぐ

 

 これでは国が揺らぐ 彼は処刑しなければならない」

 

 

 

孔明は心の中でつぶやいたに違いない

 

「 馬謖よ、本当の責任はお前を総大将に任命した私にあるのだ

 

しかし今、私は死ぬわけにはいかないのだ すまぬ 死んでくれ」…と

 

 

 

孔明は馬謖に

 

 

 

「お前の家族は責任をもってみる 安心してくれ」と伝えた

 

 

 

 

 

馬謖もこれを恨むことなく今まで目をかけてくれた事に感謝し

 

 

 

斬られるのである。

 

 

 

 

  これが「泣いて馬謖を斬る」の所以である

 

 

 

 

孔明は国力を増強し、法律を順守し、

 

必死に北伐し、挑み続けるが

 

奮闘むなしく

 

 五丈原で陣中にて没するのである。

 

 

 民衆 兵士 部下 全ての人に愛されつつ恐れられた孔明は死んだ

 

 

 諸葛亮孔明の死は蜀に絶望をもたらした

 

 

 

陣中は乱れ混乱し、魏延という軍部のリーダー的人物が謀反を起こすなど

 

 

収拾がつかなくなるかに思えた

 

 漢晋春秋によると

 

 

司馬仲達は「孔明 死す」の情報を聞きつけて猛攻をかける。

 

 

 

 

魏は撤退も不可能なあわてふためいた蜀軍を襲う

 

 

  その時

 

 

姜維は楊儀に命じて反転して攻勢をかけるように指示を出し、

 

 

 

軍旗を反し陣太鼓を打ち鳴らして司馬仲達に立ち向かおうとする。

 

 

 

孔明亡き後士気も衰え、後がないはずである

 

 

 

「まさか 孔明は生きているのか?」

 

 

 

 

 

「伏竜」といわれた亡き孔明の

 

諦めぬ「龍の魂」を受け継ぎ

 

 

 姜維は反転して 反撃に出るのである。

 

 

姜維は、今は亡き孔明の姿を目に浮かばせて全力で疾走したことだろう

 

 

 

この勢いをみて司馬仲達は撤退する

 

 

 

 

 

「死せる孔明 生ける仲達を走らす」である

 

 

 

かくて蜀は安全地帯に撤退でき ここで孔明の死を発表するのである

 

 

 

孔明の死後 葬儀は行われ 孔明が指吊した蔣琬をTOPとする体制になるのである。

 

 

姜維は軍のTOP的位置にいることができたので

 

 

 

孔明亡き後 孔明の兵法を受け継ぎ 悲願を達成するべく何度も北伐を行うのである

 

 

同じく漢晋春秋によると

 

 

内政を担当した費禕は

 

 

「我々はですら成し得なかった北伐を自分たちができるわけがない

 

 まずは国家を保ち民を治め、慎んで社稷を守るにこしたことはないのである

 

 功業樹立の時は能力のあるものに出現を待ってからでいいではないか、

 

 一か八かで戦を挑むことなどならん、その時に後悔しても遅いのだぞ」

 

 

姜維はそれにこたえることなく 北伐をするのだが費禕は兵力を制限して一万の兵士しか与えなかった

 

 

姜維は孔明より多くの回数の北伐をするが

 

 

 

 魏にはライバル ケ艾・ケ忠親子 陳泰などがおり 成果は上げられなかった。

 

 

 

 

 

 蜀内部では 「蔣琬」 「費禕」 、後に「黄皓」という害をなす宦官に目を光らせていた 「董允」

 

  この3吊 内政の要が相次いで死に 黄皓が権力をつけ、姜維を疎んじ、

 

 この空気を感じた姜維は身の危険を恐れて都に帰ることはなかった

 

 

 

そして兵の権限を掌握した姜維は

費禕亡き後 守備の兵まで攻撃に回すのである。

 

 

 

 孔明にであった20台の彼はもう60を過ぎた老人になったがそれでも戦い続けた  

 

 

 

 蜀のこの危機的状況を見て孔明のライバルだった 司馬懿の二男 司馬昭は2方向からの蜀攻略を命ずる。

 

 

 

 ケ艾 鍾会は2方向から進撃し

 

 

 

姜維が鍾会と退治している間に ケ艾は後方から狭い険しい道を進軍し、

 

 

孔明の子供 孫と対戦して勝利

 

 

やっと辿り着いた蜀の都 成都で自ら縄を後ろにくくりつけた 劉禅が降伏

 

蜀滅亡である。(263年)

 

 

姜維は「皇帝降伏」の知らせを受けて剣を岩にたたきつけて悔しがったという。

 

 

後に降伏した鍾会がケ艾を陥れクーデターを起こす。

 

 

 これは失敗に終わり、姜維は殺されてしまう。

 

 

 劉備が漢室復興を志し

 

 

 

 孔明が三顧の礼をうけてその意志を受け継ぎ

 

 

 

 孔明に才能を見込まれた姜維が孤軍奮闘し、死す

 

 

 

 私はこれを「世襲」ではなく

 

 人と人との関わり合いの中から生まれた「想い」であるように思うのである。

 

 

 

 

 

 誰が先主 「劉備」の敵対する魏の「曹操」の領地で生まれた青年が自分の死後、何十年も意志を継いで戦い続けるなどと想像しただろうか

 

 

 またコラムを載せる予定であるが蜀滅亡には様々な要因があり滅んだ。

 

 劉備 孔明 姜維の努力に歴史は首を縦に振ってはくれなかったのである。

 

 

 

  姜維論でも言及したが

 

 

 

 姜維なくして誰が劉備が掲げ 孔明が補佐した 

 

「蜀の漢室復興」の御旗を掲げることができたであろうか

 

 

 

  この3人の悲劇に後の中国の民、そして

 

我々判官びいきな日本人は時を超えて「想い」を馳せるのである。

 

  

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