左記の相関図にある人物を
ここで簡潔に紹介する。

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  えんう

 閻宇

南蛮討伐で名を挙げて 政権の中央へ進出した。 黄皓に取り入り姜維の地位 を奪おうとするが失敗 左遷された羅憲に永安 を守らせ魏軍を迎えた がトウ艾が手強いと 聞くと出撃しなかった。 戦争を繰り返す姜維から 軍権を奪うように 進言している。
 

 王平

  元 魏の将 蜀と魏の漢中対決の際、 徐晃に責任を擦り付け られそうになり蜀へ帰順 以後蜀を武の面で支える。   街亭の戦いの時は馬謖に 山上に陣取ることを諫言 したが聞き入れられずに 蜀軍は敗退。この直言が 諸葛亮に評価された。   諸葛亮の死後は漢中太守 に任命され曹爽が蜀に 攻め込んできた時も 曹爽軍を撃退している。   陣中で育ち為に字が書け なかったが「史記」 「漢書」について 知識が深かったといわれる。 蜀滅亡の15年前に没している  
    

夏侯覇

元・魏の将  夏侯淵の息子  司馬仲達の下で対孔明戦 や公孫淵討伐戦で活躍 曹爽が司馬仲達に殺害され 危険を感じて蜀に亡命 劉禅の親戚筋にもあたり 優遇された。   その後は姜維の片腕となって 各地を奮戦。    蜀滅亡の前年に戦死した。
  かくよく

霍弋

霍峻の息子 永昌太守として南蛮 の鎮圧に功績があり 蜀滅亡時には3日間 号泣し続けたという 蜀滅亡後は魏・晋 に仕え交祉を平定した 

黄皓

劉禅に寵愛を受けた宦官 董允が生きている頃は 大人しくしており 彼の死後 台頭してきた 劉禅に巧みに取り入り 蜀の政治が腐敗する原因 を作った。 姜維を左遷し、 殺そうと画策した事 もあり、 危険を感じた姜維は 北方の戦場に留まった
   しょうえん

諸葛亮の後を継いで蜀の を政治取り仕切る。 私情を交えない堂々と した政治を行い。 諸葛亮亡き後 国中が蜀の国政を 心配する中 徐々に信頼を勝ち得て いった。 上庸方面から川を下って 魏に侵攻する計画を たてたが惜しくも病没した
 

 

蜀の学者 後に「正史三国志」を 編纂する陳寿の学問の師 平和論者で度々魏へ侵攻する 姜維に「仇国論」を編纂し 戦争の無意味さを訴えた 魏の蜀侵攻の際は 劉禅に全面降伏を 進言している。

諸葛亮

中国を代表する軍師 三顧の礼を受けて劉備に仕え 劉備死後は丞相として劉禅を 盛り立てて蜀を一身に背負い 魏と闘った。   南蛮討後の北伐を前に 出師の表を表して魏と対決 第一次北伐で目を掛けていた 馬謖を抜擢して敗北したが 後継者 姜維を得た のちに4度北伐を繰り返すが ついに五丈原にて帰らぬ 人となった。

 諸葛膽 

諸葛亮の息子 諸葛亮の死をいたんで 民衆は彼の才能を愛した 黄皓の専横に愛想をつかし 隠棲生活を送っていた 魏の蜀侵攻戦では よく敵を食い止めたが 呉の援軍を待たずに 出撃し討ち死した。 意外にも彼も姜維から 軍権を奪うように 進言している。

 姜維から目をかけられ 北伐にも従軍した。 陽平関の守備を博僉 と共に任されたが 博僉が関の外で闘っている 最中に降参した

 山賊退治で名を挙げ  諸葛亮や姜維に従い  北伐 南征で活躍。  南蛮では統治者としても 名を残した。 先見の明があり、諸葛挌の失脚 費偉の暗殺を予言していた。 姜維と共に254年に魏に 攻め入った際に戦死した。

張翼

 元劉障の配下 後劉備の配下となり 北伐・南征でも活躍した。 姜維と鍾会の反乱の際も 協力したが果たせず殺害された

  董允

 董和の息子  諸葛亮に公明正大さを 認められ劉禅の過ちを正しく 救う、侍臣のたてまえを 貫き。生前は黄皓の台頭 も防いでいた。 彼の死後 董允を追慕しない 者はなかったという。

諸葛亮に認められて呉に 使者として赴き呉との同盟を 硬くした。 仲の悪い魏延と楊儀の間を とりもち両者の能力が発揮 できるように取り計らった 姜維に孔明より劣る我々が どうして魏を平定できようか とその目標達成の可能性を 否定し、姜維が出撃するたびに 約1万の兵しか持たせなかった 孔明亡き後の政治を立派に 行っていたが魏の降将 に宴会で刺されて死去した

傅僉

姜維に見出された勇将 魏の将 王真や李鵬を 討ち取る手柄を立てた 陽平関の守りを任じられた 時 蒋ジョに裏切られて 関の外で格闘し戦死した 後世の人は 「傅僉となって死んでも 蒋ジョとなって 生きたくない」と 彼の功績を称えた

羅憲

実権を握った宦官の 黄皓に媚びる事をせずに 巴西太守に左遷された 都督となった閻宇の 支配下におかれ永安 の守備を任されるが 成都が陥落。 その後は漁夫の利を 狙う呉軍を食い止めるなど 活躍し、元蜀の有能な臣 を魏や晋に推薦した。

劉禅

第2代蜀漢皇帝 劉備の後を継ぎ諸葛亮 によく政治を任せて蜀 の皇帝を40年も務めた が魏の蜀侵攻戦において ショウ周の降伏論に従い 降伏した。 蜀滅亡後も 司馬昭にあきれられる 程の暗愚ぶりを暴露し 彼の幼名「阿斗」は 後に「馬鹿者」の意味 になることになる。

寥化

 関羽の部下で 関羽が敗北した際に 自分が死んだという嘘 を広めて世間に信じさせ 蜀に帰国・職務に復帰した。 後に張翼と同じ官位に就き 姜維と共に北伐に参加。 やたら戦争をしかける 姜維に勝ち目がないことを 予言している。 蜀滅亡後、洛陽に護送される 途中で病死した。

魏・晋の将

  えいかん   衛

蜀侵攻戦で司馬昭に トウ艾と鍾会の監視役を 命ぜられる。 蜀平定後に独立を目論む 鍾会は衛カンに邪魔な トウ艾を捕縛するよう に命じたが、今度は 鍾会が謀反を起こす。 鍾会が反乱の邪魔な武将を 監禁した時、衛カンは 鍾会の謀反を伝え 鍾会を殺させた後、 先に自分が捕らえた 犠牲者となったトウ艾 が無実になり、それを 捕らえた自分の罪を 逃れるためにトウ艾 に恨みのある田続に トウ艾を殺させた。
  かくわい

 諸葛亮の北伐軍と戦い 苦杯をなめるが姜維軍とは 互角に闘う。 異民族との戦いにも功績 があった。元夏侯覇の上司 255年死去した。

 司馬懿

 曹操の代からの重鎮 諸葛亮のライバル。 智謀で知られ敵対する者は 次々と死んでいった。 トウ艾、鍾会、杜預など 次世代の逸材も見出した。 短期決戦を望む諸葛亮 に応じずに持久戦に徹底し 遂に諸葛亮を五丈原にて 病死させるにいたる。 政敵・曹爽を倒し実権を 握り魏の次の王朝 「晋」の礎を築いき 孫・司馬炎が天下統一 にいたった。
 

  司馬昭

 司馬懿の次男 兄司馬師の意志を継いで 実権を握り蜀を鍾会らに 命じて討伐させた。 鍾会が蜀が反乱する事を 見抜いており、鍾会の 野心を心配した家臣に 反乱しても成功しないと 予言した。

鍾会

母丘倹の反乱の際に 策謀を担当しその才能を 発揮した。 トウ艾と共に蜀討伐に 二方向に別れて向かうが トウ艾に先を越されて しまう。鍾会は司馬昭が トウ艾を疑うように仕向ける ために、司馬昭への上奏文 を書き換えてトウ艾に 反乱容疑で逮捕命令を出させ、 衛カンに逮捕させる。 しかし姜維を下した後 「ここで反乱すれば 少なくとも劉備にはなれる」 と魏から独立を図ったが 衛カンに見破られて 反乱は失敗に終わった。

  陳泰

 陳羣の息子 郭ワイの副将として姜維の 侵攻軍をよく防いだ。 地理に詳しいトウ艾 と「忘年の契り」 (年や地位の差があるが対等 の立場の友人となること) をかわした。 友人の司馬昭の専横に対して 彼に疑問を投げかけており 魏帝が死去した時も慟哭し 傀儡と化していた魏の臣 としての立場を取り続けた 260年に死去した。

 吃音症の持ち主で 若い頃は重用されなかったが 司馬懿に見出されて重用され 始める。 姜維とは好敵手として度々 戦い、蜀の魏への侵攻を 許さなかった。 鍾会と二手に分かれて作戦 を展開、遂に蜀を討伐する。 呉討伐を司馬昭に説くが 聞き入れられず、なおも 熱心に献策したために 司馬昭に疑われ、かつ 鍾会の策謀もあって 逮捕されて殺害されてしまう 一回の侵攻で国家を下した 名将にしてはあっけない 最期であった。

杜預

学門を好む武将で 「春秋左氏伝」を特に愛した 鍾会の部下として蜀侵攻軍に 属した。 対呉方面の名将羊コの後を 継ぎ、呉を討伐軍を率いて 次々と呉軍を撃破し晋の 天下統一となる。 「破竹の勢い」とは 彼が作った言葉である。 姜維のことを 「諸葛誕や夏侯玄も 彼には及ばない」と 賞賛し、衛カンに 対しては 「保身ばかりで正義 によって行動していない」 と非難している。 ちなみに 杜甫は彼の子孫である。
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