曹操 孟徳
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魏を建国した三国一の英雄
経歴
魏の太祖・武帝にあたる。若い頃、あまり高く評価されなかったが、橋玄は「一世に傑出した人物」と評価していた。父・曹嵩は、同地の夏侯氏の出身であるともいわれているが、中常侍、皇后侍従官であった曹騰の養子に迎えられた。
のちに太尉の位を一億銭をもって買いとった人物でった。
天才的うそつき、手のつけられぬ不良少年であった。
20歳の頃、孝廉に選ばれ、近習を経て首都警備隊長に就任した。そして、厳格な取締りによって都をふるえあがらせた。
黄巾の乱が起こると、近衛騎兵隊長として潁川の戦場に派遣されて、功績をあげた。曹操は兵法には強い関心があり、兵法書『孫子』の実質的編纂者といわれ、その注も書いている。この実戦体験によって、曹操は自己の軍事指揮能力に自信を持った。
一度は郷里に引きこもったが、首都防衛のために西園八校尉が新設されると、積極的意欲を示して典軍校尉となった。
霊帝の死後、何進と袁紹が反宦官クーデターを起こしたが、これには参加しなかった。やがて都を制圧した董卓に協力を求められたが、これを断わり変装変名して都を脱出し、陳留で反董卓の兵をあげ各将軍に檄を飛ばす
190年正月、袁紹を盟主に諸侯が集合した反董卓連合ができたが、諸侯たちの連係は不調で、最後には、連合軍は仲間割れとなり、董卓を単身追撃、徐栄の伏兵の為大敗。
192年、董卓が呂布に殺されたことで、連合軍にとって目的を失うことになった。そして、諸英雄が争いあう戦国時代的状況が現出した。この間に曹操は、青州の黄巾軍を討伐してこれを自軍に編入して、「青州兵」と称した。また、兵糧不足を解消するために屯田策をとって、力を蓄えた。
196年2月、前年の長安の動乱を逃れた献帝を本拠地・許に迎えて大義名分を得ることになった。そして、曹操は機敏で大胆な策をとり、袁紹と対抗する強大勢力を築き上げた。
董承らの曹操暗殺計画が露見、曹操は全員死刑にした。また、圧倒的不利の中官渡で袁紹に大勝して(官渡の戦い)、曹操の覇権はゆるぎないものとなった。
201年、倉亭でも袁紹を破り、袁紹は病死し、袁譚を滅ぼして北方を制圧した。
208年、兵を南へ向けて、荊州の劉表軍を降伏させた。この勢いで、曹操は一気に呉を目指した。この時に、荊州に身を置いていた劉備が南遷して呉の孫権と連合して、赤壁において曹操を迎え撃った(赤壁の戦い)。
呉の周瑜の火攻めによって曹操は敗退することになり、以後、魏・呉・蜀の鼎立時代をむかえた。しかし、天下の三分の二は曹操の支配下にあった。また、献帝も曹操の手中に収めていたので総合的には曹操にかなうものではなかった。
曹丕を後継者に指名した。この時期、馬超・韓遂らが反乱したが、蹴散らされ、かえって曹操に「反賊平定」の功績を与えることになった。
212年、呉の孫権の討伐を狙ったが、勝利を得ることはできなかった。
219年、劉備に漢中を奪われたが、呉の孫権と連係して関羽を殺害した。
220年正月23日、 洛陽で病死した。(享年六十六歳)
李的曹操感
私は最初三国志演義から入ったほうなのでやっぱり「わるもん」として考えてました。
しかし年月を経て正史の文献や小説を読んでるうちに評価は変わりました。
「なんちゅー 異才&異彩ぶりや」とそのエンターテナー度合いは他を抜いています。
非常に優秀で、女好きで、人材収集マニアで、凝り性且つ飽きっぽくてなんか個性のベクトルが凄い
能力採用主義なんか建前をかなぐり捨ててるかんじでアメリカナイズされてますね。
ただ凄いとは思うが私としては余り感情移入しにくい人で、特別好きではありません。
特別好きではないが、いたずらに批評が多いので一石投じてみようかと筆をとりました。
三国志におけるインパクトという意味では彼を超える人はおそらくいないでしょう。
李的曹操論
三国志演義の悪役として曹操像が民衆に根強くのこっているいが、最近はその偉大さを再認識しつつある風潮にあるようだ。
私は三国志の中で中国史に一番影響を与えた人であると考える。
・実践兵法家
・文化人
二つの側面から分析する。
・実践兵法家
彼の兵法を生かすその戦い方をここでは述べないが、着眼したいのは現存する「孫子の兵法書」についてである。
現存するこの兵法書は「曹操が注釈をした物のみ」なのである。彼ガ注釈を施さなければこの兵法書は現存しない可能性があった。
そして中国の類まれなき英傑・曹操が「孫子の兵法書」を参考に兵法を学び戦績を刻んだことにより孫子の兵法書の素晴らしさを証明し、この兵法書の品位をあげたことも考えられる。
・文化人
彼自身が文化人であった為、「士大夫・武将たるものの教養」として文学を奨励し、好んで文人をむかいいれて文化の促進に努め、また曹操、その息子曹丕・曹植は三曹と呼ばれこの時代を代表する詩人である。
この曹操がこのような体制をしいたことで文学が進歩したことは明白である
彼が天下の大半を手に入れた英傑であることはもちろん、その先見性(屯田は彼が考案した)文学人として、兵法家として
そして「賄賂が好きでも、女好きでもよい、能力のある者を迎え入れる」という当時としては異例の能力主義をとり
三国時代の後にも多大な影響を与えた人ということができよう。
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